武道稽古場 生雲

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                               Q&A

よくある幾つかの質問に主宰者が答えます。


Q 体があまり丈夫でなく、中年の者でもついて行けるでしょうか?


A 全く問題ありません。
  適度な運動が出来る健康状態であれば大丈夫です。
  稽古は状況や個人差によって適した形をとっていきます。
  気軽に訪れて下さい。
  始めはストレス解消や運動不足の解消を目的にするのも良いかと思います。

  



Q 古流ですか?


A 違います。
  当流は温故知新を実践する武道稽古場であり、古流でも近代格闘技でもありません。
  生雲流は様々な先達による教えを実践、再現、淘汰しながら新たに創造し続ける、
  古くもあり新しくもある武道と言えるかと思います。




Q どのような武道、格闘技が強く、実際に使えるでしょうか?


A 結論から言えば、自分の性に合った事をやれば良いという事です。
  性に合うという事は現在の自分の波長がそこに向いているという事でもあります。

  どの様な武道、格闘技の中にも強い者はいるでしょうし、弱い者もいるでしょう。
  同じ技法でも実際に使える者、使えない者がいて当然です。
  また武道、格闘技などやらずとも強い者は強いし、弱い者は弱いでしょう。

  どの様な流派、種目であっても武道、格闘技という個人はいません。
  強い弱い、使える使えないというのは、それをやる個人の事であり、ある個人、個人個人の事を言います。
  クラスの皆の成績が良くても自分の成績とは関係が無い様に、強い弱い、勝つ負けるという事の責任は
  武道や格闘技それ自体にあるのではなく自分自身にあります。

  あれをやれば自動的に強くなれるとか、これは使えるといった自分に都合の良い絶対的対象を求める依存心は
  宗教の盲信と何ら変わらず、現実に直面する予測外の瞬間の前に動揺といった形で顕れ、
  それが思い込みであった事を思い知る事になります。 誰が誰に勝てようが負けようが自分とは別の問題です。
 
  依存的、自己責任放棄的な思慮を持って何に取り組んでみたところで高が知れています。
  想像妄想を追い駆け、都合の悪い現実からは逃避する、或は拒絶するといった事に終始して
  実体の無い思い込みに囚われ自分を失う。 
  流派流儀それ自体に依存し、他人や世間に振り回されると自分の道を見失うのではないでしょうか。




Q 生雲流に於ける武道とは何ですか?


 恐怖や煩悶から心の自由を失わない事、それを顕現する在り方、それ自体を武道といいます。

  暴力、勝負、恐怖、不安といった煩悶と向き合いながら自己を開放し、
  真理と隙間無く一枚になり自由を生じるのが奥義(おくぎ)であり、奥義の実証の手段が当流に於ける武道稽古です。
  自らが体験し、気付き得た境地、それが真実なのか絵空事なのか証明する手立てとしての武道。
  当流修行の要諦は奥義に在り、技法は状況による結果でしかありません。

  武道というと色々な認識があるようですが、一般に実戦経験の希薄過ぎる者は理想、想像に偏り、現実認識が甘く、
  約束前提の無い開き直りを要求される様な実戦的局面を忌避する傾向があり、
  逆にハード・トレーニングに打ち込み、試合の様な状況を多く経験する者は使える使えないといった方法論に
  偏りやすく、目に見えない働きには懐疑的でこれを軽視する傾向がある様です。
  又、技術偏重者は見境の無い攻撃や、本能的、直感的動作の前に脆く、
  理論偏重者は実体の無い理屈に陥りやすい様です。

  神秘にも合理にも偏らず、全く同じ時、同じ瞬間は二度と来ないという事を知る必要があります。
  武道修行は稽古の中で毎回、瞬間瞬間に二度と出来ない事をやる。
  何十年の経験があっても“今”という瞬間は何時だって初めて迎えるのであり、
  前回巧くいった事は前回という状況の中の事で、全く同じ時は二度と来ません。
  毎回同じに見えても同じではなく、今この瞬間の事はそれ切り。

  何時だって初めて迎えるこの瞬間に、空無から常に“今”この瞬間の状況を創造する力を養う。
  事実と自分の隙間が消える、瞬間に於ける創造力、それが実際の状況の中で生じる必要があります。
  それは体験によって得るしかない事を、思想をもって先取りする事はできない様に、
  自身が体験の中で気付いていくべき問題であり、質問して頭で理解する様な類の事ではありません。 
  自分が気付いた時、言葉の本質が解ります。 

  どんな教えもそこに至ってみて解るのであり活字や言語で教えてもらえば解る、できるというものではありません。
  思考の集積である経験という既知の往来によって解る事は何もありません。





Q 心気体の一致とはどの様な事ですか?


A 心気体は始めから一致していますが、
  恐怖で緊張すると心の働きは囚われ、気の働きは滞り、体は萎縮して硬直する、
  という様に一連の繋がりとズレとして顕れます。
  繋がってはいても肉体の作用、気の作用、心の作用にはズレが伴うので、それぞれの働きをよく理解、体験し、
  実際の状況下に於いて一連の働きとして滞らない様にし、心の作用に気と体が分離せず従い、
  一致して働く様になる事を心気体一致と言います。





Q ここで言う合気とはどういうものですか?


A 特有の集中力を用いる感覚的技術です。
  小さなボールを指先で水底に沈める様な、或は不規則に動き回る紙切れをカッターで真っ直ぐ両断する様な
  繊細な難しさが特徴です。

  武術に於ける本来的広義では「合わせる」「合う」という同調行為全般を指し、合気、相気などと言いますが、
  今一般的に言う合気とは御式内などと言われる殿中芸であり、見境無く誰にでも技が掛かるというものではなく、
  それ自体に実戦性が無い事は周知の事です。

  合気というのも格派によって色々な考え、解釈がある様で、またその取り組み、認識も様々ですが、
  合気の解釈を誇大的に論じたり、何でもかんでも合気と同義にしたがる輩は後を絶たない様です。

  実際には、握り(手の内)の感覚を磨く事によって、段々とリアルに感じ取る事が出来るようになるもので、
  手の内の鋭敏さに長ける者になると肉体の挙動の前に反応する様になります。 的確に過敏反応するので、
  従って肉体的技術だけでは技にならず、ここに意識的、感覚的技術である合気を用います。
  張り(小手、全身)によって相手の手の内の集中力、速さ、深さなどを感じ取り、
  同化、貫通といった具合に力の中心を捉え、意識感覚をもって技にします。

  握る側の手の内が鋭敏であればあるほど絶技になるという面白さが殿中芸の真骨頂で、
  芸術的な厳しさ、美しさが特色で、神秘的な印象を与えます。
  しかしそれは手の内の集中力が身に付いていない者、脱力して技に掛かる気が無い者、
  全く譲歩迎合しない者には成立しません。

  こういう感覚、こういう世界があるという事を理解し、その感覚、技術を知ろうと努力し、
  最後まで全力で感じ取ろうとする意思で取り組む事が必要です。
  高度な技術的繊細さに習熟しようとするならば、譲歩、迎合、合意といった人格的円満さが要求されるでしょう。

  その感覚的技術を柔術に応用したのが合気柔術で、同化を主体としたぶつけない力を用いたり、
  相手の腕力や集中力に対して物理的な隙間を埋め一気に崩す貫通を主体に用いるものです。 
  無論その習熟度、相手によって通用するしないといった個人差がある事は当然ですが、
  護身術としても合気柔術は意外と応用範囲が広く、またこれら諸々の技術を様々な方向へ工夫しているのが
  各派への広がりかと思われ、個人差、感覚差によって様々である様に思われます。

  当流に限って言えば、要求される事が殿中芸とは決定的に異なる為、この合気に重点を置く事は全くありません。

  実戦に合気という状態、感覚を用いるとどうなるのか、どうなると成立しないのかを体験するために稽古をします。
  無論、合気の概念は一様ではなく、上記の例外も個人差によって間々あるかと思われます。





Q 入門したいのですが、入門条件を教えて下さい。


A 当稽古場の稽古の妨げになる様な場合や行為を除いては特にありません。
  決まりを守って素直に取り組める方ならば問題ありません。
  当流道衣は特注で多少高価なので空手着や柔道着を持参していただいても結構です。
  一般の諸々の道場と同様、事故、負傷に関する入門誓約書に記入捺印します。
  身分を証明できるものを持参下さい。(免許証等のコピー)
  他流派、他道場等との併学は認めず、又、入門規約に反する場合は破門とします。





Q 強いて言えば、奥義、超自然的働きとはどういうものですか?


A 遂には感覚や思考といったもので認識しえないところで知覚する自覚智。
  常に未知であり、知覚した、経験したと認識した時にはもう別のものになってしまう、
  決して思考によって固定されず、経験に獲り込めない生きた事実であり、
  瞬間の中に矛盾した事が矛盾せず同時に一つとなって顕れている真理の働きです。

  奥義は簡潔に言えば、脳が覚醒しながら全ての思考、経験、記憶からなる分別を停止している状態、
  そのまま、あるがままの観察、知覚によってもたらされます。
  あらゆる事物、行動、表現、働きかけ、自身の思考をそのまま、あるがままに観察して分別判断せず、
  あるがままの知覚によって顕れる普遍の真理、この存在と共に在る事を奥義(おくぎ)と呼びます。

  常に未知である奥義への体験、気付きを阻害する、過去の経験と記憶の集積である思考を止滅し、
  心は静謐、五感は覚醒、体は敏となり、それが一致すると当初は偶発的に感じ、
  「そうなってしまった」「どうやったのかよく覚えてない」といった体験として顕れ、
  やがて層が深くなると当然の事として知覚され、「観たまま」「あるがまま」となります。
  思想的、精神論的な理屈が入り込む余地は無く、只「そうだ」という事実があるのみです。

  段階としては時期とでも言うのか、その時その時の境界で気付く事にだけ気付き、
  その時々が来なければ解らない、気付かないという事です。
  時節到来すると、其処に触れる縁に導かれる様に様々な事が必然的に繋がりを帯び、心身様々に啓け、
  しかも一般に誰もが経験する様な事とは決定的に異なり、突然気付く、段々気付く、様々ですが、
  同一化する事も思考や経験といった記憶に留める事もできない、常に未知であるその存在を体験します。

  矛盾、事実とそのまま一つで在る、覚醒しながら停止した思考と静寂によってより深く調和していく。 
  天体や宇宙の活動が人間の思考、感覚といった精神作用などとは全く関係無く働く様に、
  只、其処に実証が顕れるというのが奥義の特徴です。
 
  過去と未来、生と死、自と他、強と弱、是と非、有と無、神仏と自分、全てぶっ続き。
  全てとぶっ続きの自己を明らかにする。 継ぎ目無く一枚になる。
  これは経験、記憶、信念、依存といった、思考という既知の往来を断ち切り、
  心が何かを求め努力するといった欲求と思考によるあらゆる行為を止めなければ実現せず、
  決して自分のものになりません。

  実践とは止める(やめる)事、捨てる事。 思考によって生み出された既存のあらゆる文化、宗教、神、道徳、教育、
  常識などの集積である経験という既知なる過去によって形成されている自我、思考の断滅。
  そして思考、感覚といった五感ではないところで知覚、体験する自覚智。
  起き得る現象、働きかけの全てと矛盾は矛盾のまま、あるがまま瞬間瞬間にそのまま躊躇無く一つで在る事。
  手段であり目的である起こりと結果が同時に顕れる。 今という瞬間に一つに顕れる。

  それを武として顕すから武道。 今この瞬間に在るべきに在る。
  それを何ら体験せず、それは宗教だの思想だのぬかす輩には及びもつかない事です。 

  我々は思考という過去の集積と往来に基づいた努力、追求、信仰という観念の連鎖から自由にならなければ、
  記憶と経験からなる観念によって本人の願望の産物である神、成功、満足といった幻妄には到達しても、
  それは色褪せ腐敗していくものであり、真理と呼ばれる生きた未知の存在に触れる事はできません。

  意味も理由も必要ではなく、体験を通じてそれが理想や思想を述べているのではなく
  “そういうもの”だという事実である事に気付いていきます。
  何故なら武道修行は恐怖と苦痛を伴う純然たる実践道であり、実証が厳しく困難で、
  思い込みや勘違いが入り込む余地が無いからです。
  
  

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