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「体験的な事を理屈っぽく言えば、 武道は自己を忘れきる事で全ての働きの元と連立している自己を知る。 その働きと共に在る事で自他一致している。 思考、経験の及ばない働き、始終も角も中心も無く、 相反する矛盾した事が一つに単純化し、どちらでもない。 破壊は創造、死は生、他力は自力、無は有、矛盾の一致。 失神状態や放心状態ではなく、あるがままの完全な自己空無によって正しく知覚できる真理を、 その透明度をもって経験とせず、分別、思考しないところで知覚する。 この自覚智を諸芸において表現する、体現する事を奥義と云い、 当流に於いては奥義に通じなければ武術、武芸ではあっても武道ではない。 奥義とか禅、瞑想などと言われるものは、常に新しい生きた未知の体験であり続け、 決して再現しない瞬間の中に在る。 それにより個々の実体的成長に伴い、様々に啓発され体験する超自然現象であり、 未知の体験をもって得るしかない事を、経験と知識という既に止まった過去の集積である 思考をもって先取りする事はできない。 これを否定するのは偏執的な唯物論者や無知、先験的判断、 或は非行動性に代表される体験を伴わない思考偏重者による現実認識であり、 その背景に在るのは体験が至らないという致命的な事実と、 自己の実体的成長が理解に及ぶ段階に達していないという事でしかない。」 「自分が出来ない、理解できない事は(あんな事が出来たら) などと思うものですよ。しかしそれを自分がやる様になり、 カラクリが解ってしまうと夢や想像といったロマンが瓦解し、 こんな事出来ても仕様が無いと気付いたりする。 幻滅するという事は、くだらなさに気付くという事です。 くだらなさに気付けばそれ以上騙されない。 思い込みばかりで実践体験による気付きが伴わなければ直面した現実に飲み込まれてしまう。 頭で解った様な気になっても駄目です。理解するのと体得するのは本質的に違う。 実際には自分の都合の良い思い込みが入り込む余地は無いし、 不意の瞬間に御託分別が入り込む余地も無い。 過去に巧くいった時の“あの感覚”といった過去の経験、感覚を完全に捨て去り、 過去の時間を追わず、矛盾が一つに単純化するバランスの中で時間の先を歩く。 未知であり続ける。瞬間瞬間に単純化する。 武道に必要なのは覚悟、それは度胸とか開き直りの事ではなく、 “そういうもの”だという事に気付く事、絶え間なく起きうる現実と、 その瞬間瞬間に躊躇無く一つで在る力です。」 ![]()
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