強い弱いという事から自由である事。
そこに強さ弱さを問題としないものが在ります。
あらゆる一時的達成は程無く衰退し、欲求は新たな不安と葛藤、逃避と依存を生み出し、その不安と葛藤によって、
人は消耗し、弱くなり、鈍感になります。
本当は何を強さと言い、弱さと言うのでしょう。
それは精神なのでしょうか?肉体なのでしょうか?心気体なのでしょうか?
それとも真の強さというものが何処かに存在しているのでしょうか。
否、強い弱いという概念は思考の中にあります。
そして思考は生まれては消えるものであり実在ではありません。
眠っている時、それは無いのです。
形を変えては同じ煩いを生み出し続ける心の闇は、歪んだ欲求となって我々を束縛します。
起きてもいない、直面してもいない事柄に怯え、幻妄に希望と安心を求めます。
我々は思考から自由になれるでしょうか。
思考は止滅し、脳と五感はその静謐の中に冴え渡り、玲瓏たる感受性がありのままに見、それを超えていく時、
思考が生むあらゆる葛藤は問題ではなくなります。
そこに競争でも哲学でもない武道、奥義があります。
常に未知であり、知覚した、経験したと認識した時にはもう別のものになってしまう、決して固定され得ず、思考、
経験の中に摂り込めない生きた真理、その実在の瞬間の中に在る事、その表現、顕現の形態が武道である時、
それを奥義(おくぎ)と呼びます。
奥義は脳と五感が覚醒していながら全ての記憶、経験、感覚といった思考からなる分別が止滅している状態、
その静謐によって冴え渡るそのまま、あるがままの全体知覚によってもたらされます。
それは当初偶発的にもたらされ、やがて当然の事となり、思考、感覚が及びません。
‘起きてから’認識できるのが思考であり、それらは実在に触れる事ができません。
思考はそれ自体の原初の英知を覆い隠し、外的な知識を集積する事を求めます。
我々は思考という既知の集積と往来に基づいた努力、追求、信仰という想念の連鎖から自由にならなければ、
真理と呼ばれる生きた存在に気付く事はできません。
矛盾、事実とそのまま一つで在り、鋭敏に覚醒した静謐によってより深く調和していく。
実践を通じてそれが理想や思想、哲学を述べているのではなく、‘そういうもの’だ、
という事実である事に気付いていきます。
Copyright 2009, 東京武道道場・古武道教室生雲 , all rights reserved