・入門の動機・・・師匠の岩城氏とは、師が道場をやる前から知人であり、
当時からこの人に教わりたいと思っていたので、一も二もなく入門しました。
初めて稽古に参加した時の印象は、(よく解らんが面白い)です。
ボクシングと空手をカジっていて試合経験もあったので、そういった格闘技と似た様な稽古かと
想像していましたが、これは全く違っていました。
ただ漠然とですが、初稽古を終えた時点で「自分はこういうのをやりたかった」と実感しました。
・体験して変わった事・・・稽古をするにつれて、緊張やビビりながらも身体は動く感じになってきました。
当初は試合以上の恐怖で身体が硬直したり、上擦ったりする事が頻繁でしたが、最近はかなり抜けてきました。
・気付いた事・・・対峙する相手によって、こうも“気”の働きなどが違うのか!ですね。
伸びや奥行きが本当に人それぞれです。
自分自身のは誰かに「こんな感じですよ」と言われないと解りません。
武道は格闘技やアスリートとは“真逆”な感じです。
やればやるほど達成感のような感じは薄れていきます。
“凄くなった”感じは稽古するにつれ無くなっていくと予感しています。
有難みや、こうなりたい!という様な期待感は稽古をするにつれて薄れていきます。
妙に現実的で、自分の家で隣の部屋に扉を開けて入っていく様な感じですから。
・主宰者の印象・・・は、・・・達人です。やられると判ります。 この人のはもう、よく解らない。
とにかく丁寧です。 尋ねる事にすぐ返答が帰ってきます。
・要望・・・師匠の考えるままの稽古を続けて欲しい。
私自身の状態も、対峙した人達にしか解らないと思うので、それをガンガン言って欲しいですね。
私も出来る限り相手へ伝えたいと思っております。
今まで非公開の稽古だったので、新しい人に入ってきてもらいたいです。
・体験録
2005・11・20入門
初稽古からもうすぐ一年半経とうとしている。
袋竹刀による正眼、片手上段・・・岩城師匠に対し正眼を持つ(2006・10・15)
下がる事も、出る事も、反応する事もできず小手を打たれる。
これは感動した!動けない!頭でもどこでも打てた状態だが情けで小手。
向こうから来ても、こっちから行っても、何回やっても同じ事になる。
正に無の先だが、こんな事出来たら殆ど無敵ではないかと思った。でも金縛りとは違う感じ。
袋竹刀による相片手上段・・・田村氏に対して(2007・4・1)
右手の親指付け根を、中竹の折れた軽くて柔らかいフニャフニャの袋竹刀で打たれる。
この時、自分の握っていた竹刀は叩き落され、右手親指は1ヶ月経過した今現在も痛みあり。
軽くてフニャフニャの壊れかけの袋竹刀が、鉛の様な質感で重厚に落ちてきた。
オープンフィンガーグローブの上から打たれたにも関らず、物理的に有り得ないような衝撃。
師匠曰く、「軽いものを重く使う」
体験しないと解らない。
・次に、これまでの稽古で大切だと感じる事、自分自身が工夫し一定の成果をあげている事を記す。
1、気を足裏まで引き下げる
硬直、上擦りの激しい私は、師の指示により稽古当初から意識(気)を下に引き下げる工夫を日々試みる。
意識は意識しないと最初は下に下がらない。
仕事の時、歩いている時、会話をしている時、食事の時etc・・・とにかく意識して意識を足裏まで落とす。
最初は生活の中で行うのはなかなか難しかったが、日々繰り返す事によって“上擦らなく”なってきたようだ。
2、目付け
師の指示に従い、遠くを見るというより近くを見ない、近くを見ないというより見るともなく観る。
初めは意識して遠くを見るよう試みた。 意識しないと難しい。
しかし相手と対峙する時、意識して相手の後ろを見ようとすると“働き”が無いわけではないが自分が疲れる。
また意識している分、相手の気働きをモロに受け、相手がユラユラと陽炎のように目に映り、逆に喰らいやすい。
遠くを見るより近くを見ないという感じに移行するよう工夫したら、疲れは減少した。
これは意識の仕方が少なくて済むからだろう。 意識の強さと疲れの強さが比例した感じ。
見るともなく観る、これは意識レベルとしてはゼロ。 でも眼にはちゃんと映っている。
目付けも前述の気を足裏まで引き下げるのと同様、私には重要に思われる。
私が日常生活で行っているのはこの二つ。
・最後に稽古で感じた事を羅列します。
師が言う「宇宙まで隙間無く一枚になる」状態になると、
対峙する相手との到達点までの物理的な距離=時間はピタリになる。
大気や空間を引き連れて移動するというより、初めからぶっ続きで空間に溶け込んでいるのであれば、
“時間や距離”という概念は意味をなさない。
師の言う「起こりと結果が同時」とか「無拍子」「はじめから終わっている事をやる」とはそういう事ではないかと思う。
自分の身体をよく忘れ、相手の身体をよく忘れというのも、方便の一つであろう。
強く意識すると、それに比例して空間の広がりや奥行きは狭くなる。
意識する、イメージする、考える、という事は稽古における事象に対してガンガンやるべきだと思う。
但し、その焦点に気付いたら捨てていく。
脱力、呼吸、姿勢、形、全てある調和状態によりその時々結果的に現れる状態であって、
それ自体を踏襲しても本質的にはそうはならないし、結果論的な局所を踏襲すればそうなるというものではない。
本質から逸れていかないためにも、その時々の結果論や方便を目的にしてはならないと思う。
・備忘録
今年の正月に、弟と腕相撲した。
私は一生、弟に勝つ事は無いだろうと思っていた。 それほど子供の頃から実力差があったからだ。
ふと、「もしかしたら勝てないまでも負けないのではないか?」と思い立ち、やってみた。
結果は何度やっても負けはしなかった。
弟が初めて私に対して本気になった。 でも負けない。
弟は「握った瞬間に勝てる気がしない」と言った。
弟は「筋力には全然頼らずに不思議な眼をして遠く見てる。何か得体が知れない」と不思議がり、
負けを認めた。
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